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下関市民に夏の終わりを告げる歌と踊りとみんなの夜市

街に活気を、市民に笑顔を。

高度経済成長期が終わり、戦後初の実質成長率マイナスを記録した昭和49年、
下関青年会議所が街の活性化の為に「歌と踊りとみんなの夜市」を
下関市体育館周辺で開催したことが「馬関まつり」誕生のきっかけでした。
第4回「歌と踊りとみんなの夜市」は、
「市制88周年記念祝賀市民祭」として開催され、
「市民祭」として広く市民に認知されました。
翌年には市民公募により「馬関まつり」と命名され、昭和53年に第1回を開催。
ここから「馬関まつり」としてあらたな「市民祭」の歴史が始まりました。

現在では山口県下最大の40万人を超える人出で賑わうまつりへ成長し、
下関市民に夏の終わりを告げる風物として39年間にも亘って開催されています。

また「馬関」とは下関の昔の呼称で、下関市は明治22年の市制施行当初、
「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタートしましたが、「赤間」の「間」に
「馬」の字をあてて「赤馬関」、それが現在の「馬関」となっているものです。

EVENT HISTRY イベントの歴史

馬関まつりでは昼から夜まで様々なイベントが開催されています。
軽快なリズムを刻む平家踊り、異文化交流が行われる朝鮮通信使行列再現など、
それらにも語られるべき歴史がありました。

平家踊り・平家踊総踊り大会

1185年、権勢を誇った平家一門は、源氏に追われ、ついに下関の壇之浦で短い栄華の夢を閉じます。
平家踊りは、この戦いで敗れた平家一者の供養の踊りに源を発し、加えて港町という地域性から全国各地の踊りが融合されつつ、現在のスタイルになったといわれています。
軽快なリズムを刻む二上がりの三味線と、高低二種類の勇壮な太鼓と空樽(からだる)からなる囃子方(はやしがた)をバックに、七七調を基本とした口説き節の音頭がリードします。また、踊りは「糸繰り式」と言われ、手を胸より上で、交互に糸を繰るような動きを基本として踊る点が特徴です。平家踊総踊りでは、約4千人の踊り手が会場を埋め尽くし、見るだけでも太鼓のリズムの迫力を実感することができます。
国内各地をはじめ、フランス、中国、ロシア、韓国、アメリカ、オーストラリアなど海外公演にも数多く出演し、注目を集めています。

朝鮮通信使行列再現

朝鮮通信使は朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節団で、両国間の外交課題の解消や将軍の代替わりを祝賀することが主な目的でした。
「通信」とは「信義を通じる」という意味です。朝鮮通信使の来日は、室町時代から江戸時代にかけて17回を数えますが、そのうち両国関係が安定した江戸時代に12回来日。
当時の日本は、朝鮮王朝とのみ対等で正式な外交関係を結んでおり、朝鮮国王と徳川将軍は通信使によって国書を交換し、両国の友好関係を深めました。
また、日本の民衆は通信使がもたらす異文化にあこがれ、各地で活発な文化交流が行われました。300名から500名にのぼる朝鮮通信使の一行は、現在の韓国・ソウルを出発し、釜山を経由して、海路で日本を目指します。途中、対馬などに立ち寄り、日本本土への最初の寄港地は下関でした。下関からは瀬戸内海を通り、大阪からは淀川をのぼり、京都を経て江戸に向っていました。